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仏の中の漢・阿弥陀如来を俺たちは知っているか

by yajul

ひょんなところから、こんな記事を見た。

【恐怖の事実】日本人は死ぬとほぼ確実に地獄行き決定 / 最低でも1兆6653億年は地獄で過ごすことになる

別にこの記事は読まなくていいんだけど、要するに、「地獄行き」の基準がかなりゆるくて、普通に生活してたら大体の人は地獄行きですよーこわいよねーという記事だ。
俺はこういう記事はあまり好きではない。タイトルの付け方とかね。
だがしかし、好きだとか嫌いだとか言う前に、

え、だって俺らには阿弥陀さまがいるし…

で終わる話だろう?これは!
あの、阿弥陀さまを!あの方を知っていれば!
地獄を恐れることなど、何もないのだ…!

地獄があるかどうかはもはやどうでもいい話。
地獄がない?それはそれで結構。
地獄がある?そうか。大変だな。でも俺らのバックにはAMDさまがついてるからな…!
そう、AMDのおかげで、俺たちは地獄など気にせず今この瞬間を生きることができるッ!

故に俺たちは知るべきだろう。
阿弥陀さまとはいかなる存在か。
死後の問題に恐れおののく俺たちを救うのは誰か。
シューキョー、ブッキョーなどという黴臭い枠を超え、「最高に熱い漢」である俺の、俺たちのAMDについて、俺たちはよく知るべきだ。

阿弥陀如来という仏は、サンスクリット語でいうとアミターバという。アミターバを漢語にして阿弥陀。
如来というのは「人々を救済するためにかくのごとく来たりし者」であり、釈迦如来、大日如来、薬師如来と並ぶ四大如来のうちの一人だ。(仏さまって~人って数えるのかな?)

この阿弥陀さまは、悟りを得て仏になる際に以下のような誓いを立てた。
「私は悟りを得ることができたが、この世の中にはまだ無数の苦しむ人がいる。ならば私はここに誓いを立てる。私を頼る者、すべての衆生を救おう。あらゆる衆生が往生するまで、私ひとり仏になるわけにはいかない」
これこそが「阿弥陀仏の本願」。
阿弥陀さまを奉じる浄土真宗のお寺が「本願寺」というのはこのことに由来する。

この誓いは、偉大以外の何物でもない。
想像しよう。アルカイックスマイルがまぶしい最高のイケメンである阿弥陀さまがここにいるとする。
俺の、君のとなりに。
その阿弥陀さまは「私は列の一番後ろに並ぼう」と宣言されていて、「ほら、私の前に入りなさい」と俺たち衆生をどんどん前に、前に入れてくれるのだ。もはや列の一番前は見えない。途方もない行列だ。この行列の分、阿弥陀さまは後ろに引きさがっているのだ。こんな行列は見たことがない。見るだけでもううんざりしてくる。しかし俺の、俺たちのAMDは「さぁどうぞ、一緒に並びましょう」と笑顔を見せてくれる。


むせび泣けるほどの偉人じゃねーか…!

この阿弥陀さまの誓いは、要するにこういうことだ
・この厳しい現世で修業を完成させることの難しさを、阿弥陀さまは知っている
・それゆえに、人間が死んでから修業ができる場所(=極楽浄土)に招いてくれる
・修行する意思のある者、阿弥陀さまを信じる者には無条件で極楽浄土を開放してくれる
・極楽浄土で見事全員が悟ったら、阿弥陀さまも一緒に仏になる
この、仏にあるまじき熱さ…!
いや、たぶんどの仏さまもみんな熱いんだと思うが、それにしても阿弥陀さまの熱さは尋常なものではない。熱すぎて泣けるレベルじゃねーか!

先の地獄の話を見ると、普通に過ごしていたら俺たちは間違いなく地獄行きだ。
俺たちが死んだその瞬間。
地獄の極卒が俺の腕をつかんだその時。
「俺は地獄へ行くのか」と絶望したその刹那。
後光まぶしい最高のイケメンが隣に現れ、こういってくれるのだ。
「その者は、私とともに修行をする約束をしていますから、地獄へはいきませんよ。さぁ、極楽浄土へ。ともに」

阿弥陀さまがいらっしゃる。
ただこれを知るだけで、怪しげな占い師に「あんたは地獄に行く!」と脅されても「あぁ、そうならないように阿弥陀さまと修行しますからね」でとかるーくかわせるし、「シンプルに怖い」と有名な怪談「あなたの娘さんは地獄に落ちました」も、「あ、その娘は大丈夫です。阿弥陀さまのとこいってるんで」で終わる話になる。写真?そりゃ地獄の極卒が悔し紛れに八つ当たりしただけのこと。娘さんは阿弥陀さまのとこで立派に修行してるぜ。安心しなされ。ということになる。

かくのごとく、阿弥陀さまの助けを求めるために唱えるのが
「南無阿弥陀仏」なのだ。真言の「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」でもたぶん大丈夫。
というか、そんな形式にこだわらなくても、熱い思いで阿弥陀さまの手助けを願えば、間違いなく答えてくれる。何せ、相手は「私は列の最後に並ぼう」と宣言するほどに器量の深い、深いってレベルではない如来なのだから。「助けがほしいと思ったその瞬間にはッ!スデに救済が始まっているんだ!」ということのはずだ。

しかし、「とりあえず助けてほしいって言っておけば万事OKよ」というわけにはいかない。
だって、相手は仏の中の漢、阿弥陀さまだ。
熱い漢にお願いをするのに、冷め切った態度でやっていいわけがないだろう?
「南無阿弥陀仏」と唱える/祈るその時は、静かなる救済の炎を燃やしている熱い仏・AMDの姿、そしてその情熱を感じながら行うべきだと俺は思う。阿弥陀さまの「助け」は、「一緒に修行をしようそのための場所を用意してあるよ」ということだから。「助けて!」というよりも「手助けが欲しい!」という魂の叫びこそが必要とされているのだ。
何よりも、「よくわかんない仏さま」に祈るよりも「何時でも俺をウェルカムしてくれる最高の漢」に向けて祈ったほうが、心身に漲るパワーの張りが違うはずだ。

この阿弥陀仏を奉ずる浄土真宗の開祖、親鸞はこういうようなことを言っている。
「自分の力だけで生きている、自分の力だけで物事を進めていける、などという傲慢な考えは捨てなさい。お前は一人で生きているのではない。お前の力が及ばないところでは素直に他者の力を借りなさい。他者に頼られたら力を貸しなさい。阿弥陀如来に救われるがごとく、他者の力とともに進みなさい」
これが「他力本願」の本来の意味だ。
仏教には「縁起」という考えがある。バタフライエフェクトのごとく、ほんのちょっとした事が、大きな波紋になって世界を変えていくという話。俺の、君の、ほんの少しの気遣いが、周囲を変えていくよということだ。

俺たちが現世において修行を完成させるのは難しい。
罪を負わずに生きていくことなど不可能だろう。
たった一人で生きていくことができない上に、他者とかかわれば必ず何かの軋轢が起こる。
この世は全く上手くいかない。
しかし、なればこそ!
もう俺の力はこんなもんだと認め、上手くいかない他者との関係を少しでも良くしようとあがき、それでもだめならまぁもう、仕方がない!
極楽浄土でAMDと再出発するしかねぇな!

阿弥陀さまは死後に助けてくれる(救ってくれる、とは違うニュアンスだと思う)仏さまだ。
現世にご利益はない。
しかし、阿弥陀さまは究極のセーフティネットとして、最後の最後に控えておられる。
この安心感!
なればこそ、俺たちはこの、ままならぬ現世に勇気をもって挑戦できるッ!
アルカイックスマイルの最高の漢が肩を押してくれるッ!
地獄?そんなものは俺たちには縁がない。極卒どもには永遠の休暇をやろう!残念だったな!
俺は今日のこの日を、AMDの後ろ盾をもって生きていけるのだ…!!

という、話だよ。
実際のところ、死後の世界などわからない。無限の苦しみなんてのは昔の僧侶の脅し文句に過ぎないのかもしれない。
しかし、もし、地獄というものがあるのなら。
阿弥陀如来もいるだろう。安心して修行ができる極楽浄土だって、あるだろう。
三途の川を前にしたとき、「大丈夫ですよ。さぁこちらへ」と朗らかに笑ってくれる、最高のイケメンもいるだろう。
言ってしまえば、仏教の悟りは「心持ち一つ」だ。
しかしその「心持ち」は無限の可能性を秘めている。
その心持ちに「乗ってみる」のも、いいことじゃないかと、俺は思う。
大乗仏教というのは、そういうことなのだろう。

阿弥陀如来の偉大さを目の当たりにしている俺たちは、様々なものから解放されるはずだ。
阿弥陀如来ほどの熱い漢が、戒名の良しあしで待遇を変えるなんてことはない。
そして、阿弥陀如来の「救済」は、「私と一緒に修行をしよう」ということなのだから、
与えられるのを漫然と待っているのではいけないということもわかる。
形式ではなく、真に心から手助けを望む心が大事で、それを周囲の人にも向けることで、この、ままならぬ現世においても悟りへの道が見つかるということなのだろう。

俺は、浄土宗や浄土真宗の勧誘をしたいわけではもちろんない。葬式仏教など滅び去るが良い。
俺の考えるところ、仏教というのは「悟らせるためには手段を択ばない」というのが基本にある哲学だから、その手段として、阿弥陀さまのような方がいらっしゃるし、方便というウソもつくし、禅の公案というクイズも出す。それが仏教の面白さだと思う。

極楽浄土は天国ではなく、阿弥陀さまと一緒に修行をするための場所。
自分の力を知り、きちんと他者の手を借りられる勇気を持ったものなら、阿弥陀さまは共にいてくれる。

阿弥陀さまを知ったその日から、俺たちの地獄はそもそも存在しない。
大丈夫だ。
ソワカ!

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yajul
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