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俺達を惑わす最強主義

by yajul

常々、「日本の問題は最強主義に集約されるなぁ」と思っている。
最強主義という用語があるわけではなく、単純に俺の考えた言葉なのだが。
「最強以外は無価値。最強の存在でなければ意味がない」という傾向のことで、言い換えるならば「失敗をしたことのない存在しか認めない」となる、日本全体にある傾向だと思う。(まぁ海外はどうなのかはわからないのだけど)

これが例えば就職に対して発動すると、転職者が失敗者として扱われ、生え抜きの新卒に比べて待遇が悪いということになる。新卒偏重も、「今まで一度も失敗したことがない者」を選ぶという儀式だろう。

一部の男性に見られる処女信仰もそう。今までに一度も「手のついていない」、瑕疵がない、ケガレていない存在を求める。ロリコン傾向はその延長線上にあって、生まれながらに美しく、綺麗で、なんの傷もなく整っている新品の状態を求めることなのだろう。なおかつそこに「自分を軽んじない(ることができない」という属性も加わる。

スポーツで言えば、イチローや室伏広治の人気にもそういう面はあるように思う。もちろん、イチローや室伏は偉大な選手だ。十分な評価を得てもなお評価不足な気がする。ただ、この二人は私生活上に大きな"欠点"はなかった。もし何かしらの"欠点"があったか、彼らはここまで人気があっただろうか。

ラノベ界隈での「主人公無双」の人気にも通ずるところがあるのではと思う。俺はラノベは全く詳しくないので断言はできないけれど。

もっと拡大すると、切腹や自殺、果ては大日本帝国の国際連盟脱退から敗戦のあたりまで「最強主義が影響したんじゃないかな」と思うのだが、そこまで行くと長くなりすぎるので割愛するが。

最強、最高、至高、唯一無二を重視するのは大事なことだとは思う。
「二位じゃダメなんですか」でひと騒動あったけど、やるからには最高を目指すというのは大いなる美徳だ。日本の職人文化にとって大切なことだし、日本の技術、ものづくりを牽引してきたというのは事実だ。「(褒め言葉としての)変態」なんていう言葉も生まれたし。

しかし、最高を賞賛することと最高以外は認めないことの差は非常に大きい。
特に近年は、「最高以外は無価値」とする言説があちらこちらで形を変えて目立つようになってきたと感じる。
少しでも顔に違和感があると「ブス、ブサイク」と言われたり、東京以外は田舎であったり。
高い山は裾野が広いということが忘れられていないだろうか。
裾野が広くなければ山は高くならないということを思い出したほうがいいんじゃないだろうか。
最高以外を切り捨てた瞬間、最高は最高でいられなくなるのだ。

最高の存在を称える快感、というのは確かにあるだろう。俺もそうだ。最高のものは素晴らしい。最高は最高に最高だよ!
しかし同時に、俺達の中には「こいつ…カジワラさんをキレさせちまったな…もう終わりだよてめーは…」みたいなチンピラ思考が存在することも確かだ。カジワラさんがいかなワルでも、どれほどの実力者であったとしても、それはカジワラさんがすごいのであって、カジワラさんをダシに相手を貶すことは正当化されない。

この、「最高以外は無価値」な最強主義の恐ろしいところは、評価基準が「最高であること」しかないのが問題だ。
地元最強を誇ったカジワラさんが修学旅行先で他校のワルに一撃でやられてしまったら、カジワラさんの評価はゼロとなってしまう。「地元最強のカジワラさん」が「ただの糞雑魚ナメクジ」になってしまい、それまでの彼の伝説は無価値になってしまうのだ。
カジワラさんの人となりを知る親しい友人は、この状況に納得は行かないだろう。
カジワラさんの強さが変わったわけではないのに、評価だけが勝手に上下してしまうのだ。

以下の動画は、「ブッダとイエス・キリストが幻想郷に行ったら」という設定の動画で、非常に楽しく見ていたのだけれども、コメントに少なからずブッダとイエスを最強視し、他を下げて評価するものがあるのが気になる。

この動画以外でも、「最強」が登場する動画、作品に必ずついてまわる問題が、チンピラ思考だろう。

もちろん、チンピラ思考は誰にでもある。チンピラ思考をしたからといって、何が悪いわけでもない。
しかし、チンピラ思考をしてしまったとき、俺はその存在を評価したのでなく、「最強」という地位、概念、イメージ、を評価したのだという自覚は持ちたい。カジワラさんでなく、カジワラ伝説を評価していたのだと。自分勝手な「伝説」に拘泥し、カジワラさん本人に向き合っていなかったのだと。

カジワラ伝説の語り部となるよりは、カジワラの友人として人生を生きていきたいものだな。



yajul
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