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立ちふさがる太上老君

by yajul

歴史学を志す者が最初に学ぶのは、「資料を疑え」だという。
俺は史学科ではないのでこの話の真偽はわからないが、これは素晴らしい教えだと思う。
大学の最初の化学の講義で「高校までの化学は全部忘れてくださいね」といきなり言われ、
シュレディンガー方程式の嵐が講堂に吹き荒れたあの興奮と同じものを感じる。
これが、これが学問…ッ!
思わず身を乗り出してしまうほどの強烈な体験だ。

いわゆる理系科目が、演繹を駆使して「確実」を積み上げていく学問であることに対し、
いわゆる文系は終わりなき仮定法に身を投じ、「確実」に一歩ずつ近づいていく学問だ。
「資料を疑え」は、「確実」に対する宣戦布告と言えるかもしれない。
学を武器にして、「確実」に挑みかからんとする漢の決意を感じる。大好きだ。

専門こそ微生物工学(の端くれの端くれ)だが、俺は生物学よりも長く長く、歴史が好きだった。
小学校3年で三国志に出会ってから、もう20年以上歴史が好きでいる。
時に西洋史、日本史、中東史も交えながら、やはり俺は中国史が一番好きかもしれないなと思う。
そういうわけで、中国史のどういうところが好きか、どのように読んでいるかを、
「中国史に関するよくある誤解」を解きながら書いてみたいと思う。(追記:今回はそこまで書けませんでした!)

中国史を書いた漢たちのスタイル

中国史のスタイルを決定付けたのは誰か?
それはもちろん、司馬遷である。俺の。アジアに住まう俺達の。
偉大すぎてもはや価値がよくわからないほどの歴史的歴史書「史記」によって司馬遷が決定付けたのは、紀伝体という書き方のフォーマットだけではない。
「史家かくあるべし」という漢気である。
鋼の史家魂、それこそが中国史の根幹を貫く思想なのだ。

中国の史家とはどんな男たちだったのか。それを示すエピソードがあるので、紹介しよう。

紀元前5世紀くらいの春秋時代、斉の国に崔杼(さいちょ)という宰相が居た。
この崔杼は荘公という君主に仕えていた有能な男なのだが(この荘公は「蟷螂の斧」の故事に出てくる人である)、最終的に荘公を殺して荘公の甥を即位させた、歴史的にはそれほど珍しくない人物なのだが…。
この時、斉の国の歴史家は、歴史書に堂々と「崔杼が荘公を殺した」と書いた。
権力者・崔杼としてはそのようなことを歴史に残すことは断じて避けたい。故に崔杼はこの歴史家を殺した。
後継の歴史家は空気を読…まずに、やはり「崔杼が荘公を殺ry」と書いた。崔著はまたも殺した。
その後継の歴史家もまた、空気と圧力をものともせずに「崔杼がry」と書き始めたので、崔杼は諦めて「もうそれでいいよ…」と「崔著が荘公を殺した」という歴史を認めた。
そしてその時!早馬に乗って別の歴史家がさっそうと現れ、「崔杼が荘公を殺した!」と書いた歴史書を持って城に入ってきた!しかし崔杼から「いやもう殺さないから。もうそれでいいから」と言われ、その歴史家on早馬は安心して帰っていった。
…という、史家の野郎どものこの上ない頑固さを示すエピソードがある。どうあっても、誰が殺されても、あくまで俺達は真実を書き残すッ!という熱い…あるいは若干のウザさも含んだ、そんな奴らが中国史を書き続けてきたとも言える。

そして司馬遷もまた、その鋼の史家魂の継承者。
「名誉を選んで死ぬか、生き恥を晒して宦官となるか」という究極の選択に、「俺は…俺は歴史を書き残すために生きる…ッ!」と男性自身を失うことを選び、不朽の名著「史記」を完成させたのだ。

ちなみに、先ほどの崔杼。彼が荘公を殺したのには、かなり同情できる理由がある。
荘公は無能ではなかった。宰相の崔杼との関係も極めて良好だった。
なにせ、君主である荘公自ら崔杼の屋敷に訪れ、熱く政談を交わしていたほどなのだから…。
というのは建前である。
荘公は、美しい崔杼の妻を抱きに通っていたのだ。熱いのは政談なんかじゃなくて夜の交歓。
…あぁ!NTRだよ!!2000年と500年前から人類の(一部の)男というのはこうなんだよ!
それはもう…殺すしか無いな!?
しかも、しかもだぜ!
崔杼が病気になった時、「見舞い」という名目で崔杼の屋敷にいった荘公、崔杼に合わずそのまま崔杼の妻の寝室へ直行し寝所でギッシギッシと…
死ぬしか…無いな?
殺るしか…ないな?
そりゃまぁ史家を殺したのは崔杼が決定的に悪いが、それにしてもだぞ。せめて「こういう理由で殺しました」くらいは書いておけ!というのが彼の本音だろう。
(荘公の諡はなぜ「荘」なのかというと、崔杼の「荘(家のこと」に入り浸っていたからという説がある。「寝取り公」である。)

おぉ、史家すげぇ、熱いじゃねーか!

と、熱気に包まれる俺達に一杯の冷水を浴びせかけるのが、太上老君・老子その人である。
最高位の仙人だったり、道教の神だったり、「混元老君」とかイイ感じの異名があったりするタオの境地に至りし者。
この男は、「大道廃れて仁義有り」という必殺の一言で俺達の理想を粉砕してくれる。
「大道廃れて仁義有り」とは、「仁義が大事!仁義が大事!…なんて言ってる時点で、その社会には『仁義がありません』と言ってるのに等しいじゃないか」という恐ろしい言葉である。
声高に「これが大事だ!」と叫ぶということは、叫ばなくてはならない状況にあるからだという尖すぎるツッコミ。
この老子の視点で先ほどの「熱い史家の話」を見ると…
「あぁ、そういう熱い史家は本当は少なくて、大半は権力に阿る人間ばかりだったから、熱いエピソードとして残っているんだね」というサめ切った見方になる。
さっきまで熱く燃えていた俺がなんだかバカみたいじゃないか…!
…全く誰だよ一人で熱くなってたヤツはよぉ〜〜恥ずかしいったらありゃしないぜぇ〜。
熱い史家が廃れてるってことじゃねぇかよぉ〜。太上老君パねぇっすわマジで。
歴史家なんて自分に都合のいいウソつきまくりだし、権力には勝てねーし、マジで歴史とか役に立たねぇわ。

だからこそ、資料を疑う

このように俺達の太上老君が示してくれたとおり、歴史は常に「書かれていないこと」を読む必要がある。
書いた人の立場、当時の情勢、それらを複合的に判断して、「面と向かって言いたくないけど伝わって欲しいこの思い」を汲み取るという、思春期の恋愛みたいなことをしていくのだ。まぁ、「本当に絶対に言いたくないこと」も沢山あるんだけども。

「大道廃れて仁義有り」でこの歴史を見ていくと、もうすべてが信用できなくなるかもしれない。
「こう書いてある。…ってことはこれはできてねーってこったな」みたいなニヒリズムに陥る可能性は非常に高い。
だがしかし、あえてここで熱い思いを再燃させてみよう。
たしかに、熱い歴史家はほんのひとにぎりしか居なかった。ほかはダメダメだった。
じゃあ全部ダメなのか?汚水の入った樽ににワインを一雫入れても全部汚水のままか?
いや違う!そのひとにぎりの奴らがいるじゃねえか!一雫のワインはあった!
数は圧倒的に少ないが、確かに信頼できる資料は、男は、いた!
あとはその男たちを、ワインを!かき集めて新たな樽に詰め込むんだよ!
それが「歴史家」の仕事なんだよ!
太上老君は絶対的に正しい。が、仁義を説いた孔子もまた圧倒的に正しい!
だからこそ!仮定法の荒波に飲まれ、大海に散らばった「確実なこと」を集めていこうじゃねーか…!
それが、歴史学というものなんだろう。

それじゃあ、中国史の話をしよう

「心意気の問題」に収束したところで、中国史の話をしようと思ったものの…。

な、長すぎるなこの記事は!

なので、今回は太上老君の必殺の一言を噛み締めつつ、それに負けないよう生きていこうじゃねえかよ…!
ということを結論に、続きはまた近いうちに書きたいと思う。

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yajul
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